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[番外編]黒沢清監督と「アカルイミライ」について語ろう

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1月7日、京橋・映像美学校にて、第1回目のEJ(進化する日本映画)トークスとして、「アカルイミライ」のティーチイン試写会が行われた。

ご出席(敬称略)
黒沢清 監督
北小路隆志 (司会:映画評論家)

<上映後のトークより>

司会 「アカルイミライ」いかがでしたでしょうか?この中には黒沢さんの映画のファンの方もいらっしゃるでしょうし、初めてこの映画で黒沢さんの作品に出会われた方もいらっしゃるかと思うんですけれども、たぶん黒沢さんの映画をこれまでご覧になって来た方にとってはですね、ちょっと異色というか、これまでと感触の違う映画だなというふうな感想をお持ちになった方が多いかと思います。もちろん私もそうなんですけども、これには色々要因がありましてですね、私なりに映画を見たり、あるいは黒沢さんにインタビューさせていただく機会もありましたので、ちょっと前振りをさせていただきますと、たぶんこの映画はもちろん大きな予算をかけた大作というわけではありませんし、話の内容として、ものすごく派手なものでもないかもしれないんですけども、黒沢さんのフィルモグラフィーなんかを数年後に振り返るときに、ここで何かが始まったな!とか、何か変わったんだな!というふうなことで、本当に文字通りエポックメイキングの映画になるというふうに私など確信してるわけです。何が違っているんだろうか?と、これはもう皆さんご覧になったらおわかりになるかと思うんですけど、いくつか挙げておきますと、たとえば、それこそ登場人物が着ている服が違います。これはもちろん北村道子さんという方がこの作品に参加なさったということが大きな要因なんですけども、私のようなファッションに興味ない人間が言ってもあれですが、これまで黒沢さんの映画で、いわゆる衣裳でですね、非常に観客の目を引くというふうな機会はまずなかったと言っていいし、むしろそれを、そういう印象を消し去ろうとしていたような感じさえして来ました。ところが、この映画を見ますと、とりあえず主要な三人の登場人物の衣裳はですね、絶対に記憶に残る衣裳ですし、あるいは最後の場面で、行進する高校生たちが白いシャツの下にゲバラの顔をあしらったTシャツを着ているということもすごく印象に残るはずです。そういう意味で言うと、まずもう登場人物そのものが違って見える部分があります。あるいは技術的な面というか、撮影の方法の面でも、今回はフィルムではなくてビデオで撮影されている。そういったこともこの映画が今までの作品とちょっと違って見える要因にもなるでしょう。あるいはもっと演出面といった方向でも考えられると思うんですね。たとえば、これまで黒沢さんの映画ご覧になった方にとってすればですね、僕もそうなんですけれども、たとえばオダギリさんと藤さんがああやって抱き合ったりして、感情を表に出すような場面があったときに、これは、こんな場面は今まで黒沢さんの映画にあっただろうか?というふうにちょっと戸惑ったり、驚いたり、あるいは嬉しかったりと、そういった感慨をお持ちになった方もいらっしゃると思うんですね。そういった意味でいうと、たぶんこれまでだと役所広司さんがたぶん藤さんの役を、キャラクターを役所広司さんがやっていれば、ああいった場面もあったかもしれないんですけども、藤さんがやるとですね、ちょっとこう、何か危うい感じが出て来て、役所さんがやってるとなんか安心して見てられるんですけど、藤さんがやられると、どこかこう青春映画っぽい感じになりますね。何かこちらもドキドキするような感じになるんです。そういった意味で、どこか感情がわーっと顕になる部分というのも避けずに捉えていらっしゃる。そういった意味で、この映画は色んな意味で感触が違う映画である、これまでの黒沢作品とは違う映画であると思います。ただ、もうちょっと広い分野でおくと、これは黒沢さんご自身がおっしゃってる、インタビューしたときにおっしゃってたんですけども、たぶん90年代半ば以降くらいから、黒沢さんはある方向で作品を作ることを決められたわけですね。それはたぶん一般的に黒沢清という名前が認知されて、皆さんが代表作として憶えていらっしゃるような、「CURE」とか「ニンゲン合格」とか、そういった映画はみんなその部分、時代に入ると思うんですけども、基本的に禁欲的な演出の方法と言いますか、アプローチの方法で撮られた映画がずっとありまして、で、それをご覧になった方にとってすれば、この作品は異色なんじゃないか、「アカルイミライ」は異色の作品じゃないかと思われると思うんですけれども。禁欲的なやり方っていうのは、簡単に言うと、普通、人が人を殺すときにこういうふうに撮るだろうというふうなやり方を禁じてしまう、普通の映画がやらないようなことをやらなくてはならないということを、自分に一種義務のように課して、禁じ手を一杯使って撮って行く映画だと。で、それがすごく高い水準で結実して、「CURE」はもちろん代表作ですし、色んな傑作が出て来たわけですけれども、実は黒沢さんにとっては、それはある部分に過ぎなくて、もっと違う可能性を黒沢清という映画監督は持っているんだと、そういうことを思い起してみる必要がありまして、それは広く言うと1970年代ぐらいにたぶん黒沢さんは本格的に映画をご覧になって、映画を作られ始めたと思うんですけれども、70年代の映画というのは、これは良くも悪くもなんですけれども、それまでの映画の撮り方として固まって来た、古典的なやり方が崩れて行った時代です。で、ある意味では、何でもアリになって来た時代なんですね。その結果、映画の平均水準としてはちょっと落ちたかなぁと思える、面白さというのはちょっと落ちたかなぁと思うんですが、逆に、色んなやり方が出来るんだという意味で、自由を手にしているのが70年代という時代で。で、黒沢さんはそこで映画作家としての才能なり感性を育まれた方なんだと。そういったことを思い起こしますと、今後、この「アカルイミライ」以降ですね、黒沢さんがそういった70年代の、原点に戻るというのも変な言い方なんですけれども、映画を作る上での別のアプローチが今後出てくるのではないかと、そういうふうなことも予感させる映画ではないかというふうに思うわけです。で、等々と前置きを長くしちゃったんですが、これから皆さんの方からご質問をいただいて、黒沢監督がお答えになるという形で進めて行きたいと思うんですけども、まず最初に一つだけ質問させていただいていいですか?今丁度、映画をご覧になられてすぐ後なんですけれども、最後のシーンで、これはこの映画に限らないことなんですけども、黒沢さんの映画っていうのは終わり方がですね、続きを見たくなる終わり方というか、完結しない方向でむしろ映画を終わらせようとされてるような気がするわけです。たとえば「回路」なんかもそうだと言えるし、「CURE」みたいな映画にしても、なんとなく、ひょっとして黒沢さん、「CURE2」を撮ろうと思っていらっしゃるんじゃないか?と思わせる終わり方とも言えるわけですね。そういう意味で言うと、黒沢さんにとって映画の終わり方、終わらせ方というのは、何らかの原則があってそうされるのがあるのかどうか、ちょっとお伺いしてみようかと思うんですが。

黒沢 どうも、黒沢です。えっと、あの終わり方ですね?あの、手短に。いや、それはたぶん物語、まぁ2時間なら2時間の中で、ある物語らしきものが語られるんですけど、映画っていうのは、なんか物語にしたくないっていう、法則というか欲望があるんですよね。物語の定義は難しいんですけど、何か始まりがあって終わりがあるものが物語とするならば、なんかそうしたくないんです。映画っていうのは、もちろんフィクションですけども、僕が作っているのはフィクションですけども、何か非常に現実に似ている、本当に人間がいてですね、本当の街で何か動いたりしゃべったりしている。現実の世界ってのはもちろん、始まりも終わりもないわけですね。現実の世界の2時間分を、ちょっとここでちらっとお見せしましたと。ですから映画の始まる前ももちろん、スクリーンの向こう側の世界はあるし、映画は2時間で終わりますけども、その後も向こうの世界は続いてるんですよ、決して物語じゃありませんよっていう感じを出したいからなんだと思います。実際、撮影現場ってのはそんなもんですね。どこが始まりでどこが終わるでもなく。ま、撮影の期間内で終わるわけですけども、「あぁ!これで撮影は終わってしまうんだ」ってことですが、何かそこで物語が閉じたような感じはまったくない、それが撮影現場というものです。だから自然に、撮影で撮られたある部分を見てもらおうと、他にも一杯あるんですけどねと、いうのが出たということですかね、ハイ。

司会 まぁその辺の撮影現場の雰囲気っていうのは、この「アカルイミライ」に関して、いわゆるメイキングのような形で、「曖昧な未来」という作品が同じ劇場で夜に上映されるそうですから、ぜひ、この映画をご覧になった方には見ていただきたいんですが、まぁ、今おっしゃってるような(笑)感じが出てるとも言えるし、初めて現場の(笑)黒沢さんを見れるという意味でも、作り方が見れるということでも面白いと思うんですけども。

黒沢 それ僕まだ見てないんですよ。

司会 ええ。見たくないんでしょうね、きっとね。

黒沢 いやぁ、ちょっと冷静には見れない。忘れた頃に。いや作品としては良く出来てるかもしれないけど、自分がね映ってるドキュメンタリー、これは見たくないですよ。

司会 そうですね(笑)、ハイ。シリーズ物っていうのも撮られますよね?

黒沢 シリーズ、ええ。

司会 「復讐」なり「勝手にしやがれ」っていう。そういうのってやっぱり関係あるんですかね?その終わり方の問題。

黒沢 あるかもしれませんね。シリーズ物って別に映画には限りませんけど、シリーズ物ってやってて楽しいですね。てのはやっぱり、あるこっちが作ろうとした世界がずっと映画が終わっても持続しているような気がするし、映画が始まる前も、前の作品があるわけですから、「あの世界だよ、あの世界」って、映画は終わってても「あの登場人物、ずっと生きてんだよね、あっちでね」っていう感じが。それがまぁしかもフィクションではあっても生の俳優、「また哀川翔だよ、あれでしょ。」っていうね、ある具体的な人間を伴って、そういう感慨が湧きますから、いいもんですよね。

司会 じゃあ、ぜひ皆さんにご協力いただいて、「アカルイミライ」シリーズみたいな(笑)ものをですね、「またオダギリジョーかよ!」みたいのが出てくといいんじゃないかと思うんですけど。

黒沢 浅野忠信は実は死んでなかった!とかね(笑)

司会 そうですね(笑)。ちゃんと伏線を張ってますので、ご協力ください。
あの、それではちょっとここらで皆さんの方にマイクをお渡しするというか、「アカルイミライ」についてでもけっこうですし、あるいはもう少し広い意味合いで、黒沢さんにお聞きしたいことがありましたら、ぜひお気軽に手を挙げていただければと思うんですが。いかがでしょう?

質問
撮影素材の選択基準について
黒沢 この作品を撮ったのは24Pハイビジョンていう、家庭用のビデオとちょっと違いますけど、まぁ基本的にはビデオですが、最終的には今日もフィルムでやりました。最終的にはフィルムになるんですね。撮ったのがビデオでだというだけで。それで撮っている物は、まぁ映画と同じで人間であったり、街であったり、アナログなものを撮っているわけで、何も変わりはないです、基本的に。ただちょっとカメラの形が、よーく見ると違うという程度で。基本的には何の変わりもないと思っていますが、これ撮り終わってから「何かいつもとちょっと違うな」と思ったのは、これはこの家庭用のDVで撮ってても思うんですけど、何かっていうと、照明ですね。これはフィルムの場合やはり、けっこう照明を当てないとなかなか映らないですね。これがビデオの場合、これがテレビドラマなんかの場合はけっこう照明当ててますけども、今回はほとんど照明を使っていません。自然光の中で撮影したわけです。すると何が起るかというと、こういう場所で、普通の実際の家の中で、カメラあって、向こうに俳優がいて、こっちにスタッフがいるんですけども、こっちと向こうの区別が曖昧になる。どうしても照明を当てますと、照明が当たっている側が俳優さんのいる場、当たってないこっちがスタッフのいる場、俳優さんも照明が当たってるそこが自分の芝居をする場だという意識が自然に出て来る。それが照明をまったく当てないと、どこも同じような光になってますから、無意識的にですけども、たまたまカメラがこっち向いてるけども、その家はさも自分の家であるかのように、特殊な光は何も当たってないわけですから、画面には映ってないけども、カメラの向こう側も何か、俳優が今立っている場と変わりがない場であるかのように、どうも心理的に思えるのかな?と、何かこう親密な感じ?俳優がより演技しているというよりも、生な感じが、どうも照明を当てないということによって出たのかな?というのは後で感じたことですね。ですからビデオを使う、良いか悪いかは別として、フィルムと違う点が1個あるとしたら、その照明がいらないという点だろうと。もちろん当てたっていいんですよ。当てたっていいんですが、なくても良いので、演技をしてる感じがあまりしなくなることだろうという気がします。

質問
観客にどんな環境でみて欲しいですか?
黒沢 自分の映画をどういう状態で観られたらいいか?ってことなんですけど、まぁこれは平凡ですけど、映画館で観ていただきたいなぁと。なぜかといいますと、ビデオでもいいんです、ビデオで見てもいいんですけど、スクリーンのサイズは大きい方がより良いんですけど、あまり大きくなくても良いです。僕が一番嬉しいのは、知らない人と並んで見て欲しい。つまり、横にも前にも知らない人がいて、自分が別におかしいと思わないところで、その人が笑ったり、自分は「アハハ」と笑ったのに前の人は笑ってない、あるいは自分は感動して、「あぁ、良かったな、最後まで見よう!」と思ったら、前の人はクレジットが出て来たら立って出て行ったとかですね、そういう、「俺はお前と違うんだ」、「あいつと俺は違う」という場で見ていただきたいというのが一番の望みですね。それが映画だと思っています。作品と自分が面と向かう場ではあるんですけども、映画館というのは、ビデオでも同じことができます。ただ唯一、家庭でビデオで見るのと映画館で見る違いは、知らない人が自分の想像もしない反応をしている中で、「俺って何て変わってるの?」とか、自分がおかしいと思ったらみんな笑った、「俺って何て平凡なんだ!」とかね、同じところでみんな怖がってるとか、あまりに下らないからわざと途中で出てやるとかね、そういう行為が出来る場所で見ていただきたいと。他人と俺はこんなに違っている、同じだということを、一本の映画を通して認識できる場で見ていただきたいものですね。

司会 この間、ちょっとおっしゃってましたよね?要するに、良い映画はいくら家でビデオで見ても、やっぱり面白いと。

黒沢 そうなんですよね。これはね、僕も自分で作りたい映画は、ひどい状況のひどいビデオの小っちゃなこんな画面で見ても面白い。映画館の大スクリーンで見ると面白いんだよねという程度の映画は、今一つ面白くない映画だと(笑)本当に面白い映画はどんな状況でもたぶん面白いんだろうと、経験的に言うんですけど。

質問
「回路」のハリウッドリメイクにみる、海外とのコラボについて
黒沢 確かに「回路」をリメイクしようという動きはあります。ただ、それが現実にされつつあるわけではありません。「リング」はもちろんリメイクされたわけですけど、「回路」に限らず、今日本の映画の何本かはリメイク予定ということで、つまりアメリカで資金を集めつつある。集まらなかったらリメイクされないので、そういう状況にあるんですね。だからリメイクされるかもしれないという程度です。今着々とリメイクが進んでるわけではありません。だから、どうなるか僕もまだわからないです。海外とのはね、僕もその程度なんで、よくはわからないですね。ただ、そこはその日本って映画以外の分野ではかなり色々海外ともう色んな、グローバリズムじゃないですけども、世界的な経済の中にちゃんと組み込まれてるんですけど、映画はね、ほんとに鎖国状態と言いますか、本当に僕が知ってる限り、日本人の監督で日本映画を撮っていて海外で、日本以外の国で、向こうのスタッフや俳優と映画を作った監督ってほとんどいないですね。大島渚さんが「マックス・モナムール」っていうのをやったというのが一番有名でしょうね。あとは向こうで撮っていても、全部スタッフは日本人だとかね、実は日本のお金が半分以上入っているとか、合作はよくあるんですが。あるいは向こうの、黒澤明さんなんかの場合は、海外の資金だけども全部日本で撮ってるとか、そういうのはあるんですけども、完全に海外に出て行った、野球のイチローとかああいうことですよ、ああいう映画監督ってほとんどいない。だから、誰に聞いていいのかわかんないんですよ。そういうときどうするんですか?って聞こうと思っても、大島渚さんに(笑)聞けないですし、怒られそうですし、ほとんど誰にも聞けないんで、誰も監督はもちろん、プロデューサーもなにもわからないんですね。だから僕も実際海外で作ったことはないので、今後、どなたかが、「リング」の中田秀夫さんとか、わかりませんけども、これから、いよいよ映画も海外に向けてというか、いわゆるグローバリズムの中に入って行くのかしれませんが、そうした場合、日本映画がどうなるのかわからないですけどね。これはわからないです、今後どうなって行くのか。日本映画がほとんど経験したことのないことが、ようやく今、他の分野からすると何十年遅れてようやく来てるとこだと思います。わかんないですね、スイマセン。

質問
学生時代に見るべき映画は?
黒沢 学生のときに見るべき、何ですかね?学生のときに見ておくべき映画。

司会 いや、私に質問されてるわけでは(笑)例えば、黒沢さんがリメイクするとすると、どんな映画をリメイクしたいなんてご希望なんてないですかね?

黒沢 いや、もう色々ありますけどね。でも、やっぱ、そのときに流行ってる娯楽映画、すると大体ハリウッド映画ですけど、はまず嫌がらず見た方がいいんじゃないかと思いますけどね、リメイクできるかどうかわからないですけど。でもそこに色んなヒントは転がっているでしょうし。ただね、っていうこと僕はね10年以上言い続けて、あまり良い効果上げてないから(笑)、80年代くらいまでの、ものすごい金のかかったヨーロッパの芸術映画っていうのを以外とみんな見ていないのではないかしら?見てんのかな?ビデオではね見てるかもしれない、フェリーニとか、ベルトリッチとか、「こんな金かけてこんな変なことやってんの?」っていう。ちょっと前まではね、ドゥーアンドロクロス(?)とかもその中にあったんですけど、この間、ソコーロフの「エルミタージュ幻想」っていうのを見たら、久々に金のかかったヨーローッパ芸術映画だと思ってびっくりしましたけどね、「こういう映画あったんだよ!昔。」っていうね、本当、ここんとこなかったんですけど。ええ、金のかかったヨーロッパの芸術映画を見ることをお勧めしますね。「こんなことに資本を使っていいんだ!?」、経済だけで映画は動いてないんだっていうことが、まざまざとわかるような作品。

司会 ソコーロフの映画は今年(2003)公開されます。

質問
若者を題材にした理由
黒沢 若者達に関しては、僕が見たところの現代の若者とかいう視点は、実はそんなにはっきりしていません。そんなに知らないしね、若者のこと。若者と言ったって、いくつの誰のことだかわからないんで、ただ若くなくてもいいんですけど、まだ自分が何者かわかってない人、それは非常に表面的なことです。つまり、就職していないとか、結婚していないとかいう、自分は夫であったり、父親であったり、何々会社の社員であるといった、社会が押し付ける肩書きがまだ何もない状態の人、いや、年取っててもそういう人いると思いますが、そういう人間の一番わかり易い形として、まぁ若い人。もちろん大学生ではもうない、みたいなことはあるんですけども。そういう、社会がまだ何者とも認定できていない人ということで、若い人を主人公にしました。たぶん今も昔も、具体的には色々違うことがあるんですが、精神的には似ているのかなという気がします。何者かわからないので、何者かにならなきゃいけないんだけど、なるのが嫌だけれど、いずれなるんだよなという諦めとか、その中で揺れている。年齢は色々ですけど、人間大体そんな状態、いくつになっても、何らかの形で続くとは思いますけどね、そういう人を出したかったということですね。

質問
人間関係についての考え方
黒沢 そういう人どうしが、そういう人々が、まぁもちろん藤竜也さんは、一応自分が父親であるとか、こういう仕事をやっているとかいう認識をとりあえず持っているわけですね。おしぼり工場の社長は、はっきり「自分はこういう者である」とわかったつもりでいる。それは年齢的なものももちろんありますが、それと自分が何者かはまったくわからない苛立ちを持ったオダギリジョーさん、それと浅野忠信さんはまったく謎めいてる。 どう作っていくのか?ほとんどお互い理解しづらいわけですよね。年上の者は「いずれこうなるんだよ、今は若いからわかんないだろうけど。」とまぁ、ついそういう理解の仕方をしたくなるんですけど、「本当にそうか?」っていう疑問も、年取ってもどこかにあるわけなんですね、「これで良かったのかな?」っていう。そういう者どうしが、お互い理解できないけども、存在を認め合うっていうドラマにしたかったっていうことですね、って、これ質問の答えになってるのかどうかわかんないですけど。

質問
クラゲの象徴するもの
黒沢 クラゲの意味?意味はないですけど、まぁあんなものが急に出て来たら、どっかふわふわ水槽にいる分には何でもない物のようで、大量に増えて行くとちょっとヤバイかな?ま実際ヤバイわけですね。ただ人喰鮫とかですと、ヤバイことがかなりはっきりしてますから、対処仕方がわかるんですけど、一瞬どうしていいかわからない、そういう、なんとなく社会ってこんなもんだよねと思っているのを、ちょっとグラッと、ちょっと対処の仕方に困ってしまう異物とでもいうんですかね、そういう物としてクラゲを使いました。当然、映画を見てわかるように、そういう物って、最終的には社会から駆除されるというかね、やっぱ危害を及ぼすものは追い払いましょうということになってしまうんですけど。

質問
守の再登場の意味
黒沢 これはね、いつも幽霊が出る映画たくさん撮ってるんでね、今回は絶対に出さなと思ってたんですけどね、ハッ!と気付くとね、幽霊が...浅野忠信さんをけっこう前半で、中盤で殺して、いなくなって、「どっかで出て来てほしいなぁ」ってね。「そっくりなもう一人の人物が出て来るってのもありだよな」、とか、「そうすると話めちゃくちゃになるよな」ってね、出す手は...一個あるんだよってね(笑)。もう一回なんか出て来て欲しいっていうんで、「ま、いいっか、また、だけど」っていうんでね、出しちゃったんですね。幽霊なんですね。あれは何の象徴でも、オダギリジョーの見た夢でもなく、あれは幽霊なんです、ええ。

司会 ちなみにクラゲは、さっき黒沢さんがおっしゃった、ヨーロッパのお金を莫大に使って作る芸術映画を撮る人の一人であるヘルツォークの新しい映画がですね、その映画自体はしょぼいんですけども、新作が今年あるんですが、クラゲが一応出て来るんですよ。

黒沢 えっ!

司会 ええ、だからクラゲなのかなぁ?今はって、一瞬思ったりしましたけど。これも根拠のないことですけれどね、クラゲ出て来ます。

黒沢 いつ作った映画なんですか?

司会 えっとね、たぶん去年やった映画祭なんかでやったはずですから

黒沢 一昨年くらいに?

司会 ええ。

黒沢 じゃ先か!向こうが。

司会 微妙なとこだと思うんですけどね。

黒沢 そうですかぁ...

質問
タイトルをカタカナにした意図
黒沢 これはそんなに深い意味があってカタカナにしたわけじゃないんですけど、最初、本当にまさかこれが映画のタイトルになると思わず、だだなんとなくストレートな仮題として「明るい未来」っていう漢字で書かれたものを付けてたんですけど、「これはありえないよね?」ってことで他のタイトルを考えなきゃって。漢字で書かれた「明るい未来」っていうのは何で、あまりに嘘臭い、わざとらしく見えるのかって、よくよく見ると、漢字なんですよね。「明るい」って、これ漢字というもののなんか妙な力なんですが、「明るい」っていう漢字と「未来」っていう漢字が、「うっそぉ!」っていう感じをより強調するように思えたわけです。で、他の題名ないかな?ないかな?って言ったときに、僕ではなくてプロデューサーの一人が「ん、これカタカナで書いてみたらどうだ?」って。「それ、同じじゃないか?」って思ったんですけど、カタカナで書いてみると、まぁ当たり前なんですけど、漢字の持っていた強烈さがなくなるわけですね。元々これは非常にひねくれたタイトルとか、非常に裏読みをしてもらうためのタイトルであると思っていなかったもんですから、ストレートに明るい未来、未来は明るいんですということを伝えるためには、意外に漢字じゃない方が良いのかもしれない、と思えて来て、そのカタカナのものがそのままなったということですね。響きは、ですから電話で言うときも、人前で言うときも「カタカナだからね」って言っておいてくださいね、「漢字じゃないよ」って。やっぱり言葉で、口に出すとね、絶対漢字を思い浮かべるでしょう?、皆さん。あれが何か嘘っぽい感じがするんでしょうね。まぁそこは、カタカナにして今は良かったと思ってます。

司会 ちなみに、「ニンゲン合格」のときは、「人間」っていう字が漢字だと、かなり嘘臭いからカタカナなんですか?あれはもちろん「人間合格」っていったら、太宰治とかなんか色々あるんでしょうけど。

黒沢 あれもねぇ、いい加減なタイトルの付け方しましたねぇ。あ!同じかもしれないな。人間、「人間合格」なんて、ありえないだろうって。プロデューサーが「うん、人間、カタカナにして..」あ!同じだ(笑)同じでしたね。

司会 一つ判明いたしました(笑)

質問
車の運転席の撮り方について
黒沢 そうですね、まぁ映画今終わった所で、皆さんそれぞれに感じていらっしゃるでしょうから、あまり僕が解説加えてもしょうがないと思いますけど、希望があるってことだけは何としても伝えたかったってのも変ですけど、表現したかったですね。ただ、まぁ「じゃあその希望って具体的にどういうこと?」っていうと、「いやそれは僕にはわからないんだ」という、しか言えないんですけど、「こうこうこうなることが希望ですよ!」とは言えません。一人一人違うから。でも「希望はある!」っていうことだけを、なんとか表現はしたかったです。車のシーンは、あれは一生懸命考えてですね、狙って撮ったんですけど。実際に車に二人乗ってもらって、カメラ2台で撮りました。ちょっとダブってるところもあるんですね。普通あんなことしないんですけど、何であんなことしたかといいますと、僕これまでも車を何度か自分の映画に出して来るんですけど、自動車っていうのは、ちょっと映画を見慣れるとわかるんですけど、映画で自動車乗ってるシーンを撮ると変なんですよね。何で変かっていうと、当たり前なんですけど、こう二人並んでる、非常に接近して、助手席と運転席に並んで、同じ方向を見てる。同じ方向に進んでる。何か会話したりして、真正面見ながら会話して、同じ方向を見てる。実際に車に乗ると、そんなこともないのかもしれませんけど、映画で見ると、それを真正面から撮ると、何か二人が妙にこう仲良くなったような、それまでケンカしていた二人が、急に何か同じ方向を目指して、そんな感じがするもんなんです。実際そのように映画の中では使われることがけっこうあるんですね。ロードムービーなんてのはそうですね。全然関係ない人たちが、突然何か車に乗ってブーッって走り出すと、何かこう仲良くなっちゃうっていうね。で、今まで僕の映画でも車は往々にしてそういう風に使われて来ました。車にのった二人は、全然関係なかったはずが、それから運命を共にしてしまうとかいう、そういうドラマとして重要な空間だったんですが、「アカルイミライ」ではそれを全く逆をやったんですね。同じ方向を見て、接近して隣り合っているはずの二人が、何か全然そっぽ向いて、すごく離れてるって、どうやったら見えるんだよ?って、けっこう考えてですね、こうやったら見えるんだ!ってのをまんまやったんですよ。ですから、身も蓋もないんですけど、車で隣り合ってるはずの二人が、全く同じ仕事に向かって行ったりするんですが、全然二人の運命は違います。二人はそうそうお互いを理解していません、車に乗っているにもかかわらずっていうのをやりたかったんですね。それでああいう、今言ったまんまの画面を作ったということでした。

司会 今日はどうもありがとうございました。


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更新:2003.02.01(土)
obuchi@yk.rim.or.jp